石破首相の「楽しい日本」を読み解く
「楽しい日本」って、なんだろう?
「新しい日本のビジョンとして『楽しい日本』を目指したい」――。石破茂首相がこう語り、注目を集めています 1。特に2025年の施政方針演説では、これからの国づくりのキーワードとして示されました 2。
でも、「楽しい日本」って、具体的にどういうことなのでしょうか? 首相はどんな社会をイメージしているのでしょう? そして、それはいつの時代の日本を参考にしているのでしょうか?
この記事でわかること
この記事では、石破首相の言う「楽しい日本」の意味や背景を深掘りします。
- 「楽しい日本」の具体的な中身:首相自身の言葉や、影響を受けたとされる堺屋太一氏の考えから読み解きます。
- モデルとなった時代?:特に首相がよく言及する1970年の大阪万博の頃、つまり高度経済成長期の日本がどんな時代だったのか、経済、社会、文化、政治、国際関係など、様々な角度から振り返ります。
- 良いことばかりじゃなかった?:高度経済成長期の「影」の部分にも目を向けます。
- 現代から見た「楽しい日本」:今の日本で、このスローガンはどう受け止められているのか、批判的な意見も含めて紹介します。
この記事を通して、「楽しい日本」という言葉の裏側にあるものを一緒に考えていきましょう。
- 石破首相の「楽しい日本」を読み解く
- 石破首相の「楽しい日本」って何? その中身を探る
- 「楽しい日本」が目指すのは、あの頃? 高度経済成長期とのつながり
- 1970年前後、日本はどんな時代だった? 経済・社会・政治を振り返る
- 輝かしい時代の影:高度成長期の問題点
- 現代から見た「楽しい日本」:共感と批判の声
- まとめ:「楽しい日本」は実現する? ノスタルジアか、未来への道しるべか
石破首相の「楽しい日本」って何? その中身を探る
首相が考える「楽しい日本」とは?
石破首相は、「楽しい日本」をこれまでの日本の歩みの上に位置づけています。明治時代の国が引っ張った「強い日本」、戦後の企業が中心となった「豊かな日本」に続く、新しいステージが「楽しい日本」だというのです 1。
その中心にあるのは、私たち一人ひとりの幸せ(ウェルビーイング)や、自分のやりたいこと(自己実現)ができる社会。お互いを尊重しあい、安心して安全に暮らせて、夢に挑戦できる…そんな社会を目指しているようです 4。背景には、日本の幸福度ランキングが低い(G7で最下位など)という現状への危機感もあります 6。
首相が目指すのは、国民みんなが「笑顔」でいられて、「希望」を持ち、「明るさ」を感じ、「わくわくする楽しさ」を実感できる社会 6。単にお金持ちになるとか、国が強くなるということだけではない、心の豊かさや活力を大切にしたい、という考えがうかがえます。
堺屋太一さんからの影響
「楽しい日本」という言葉は、実は作家で経済評論家でもあった故・堺屋太一さんの最後の著書『三度目の日本』からヒントを得たものだと、石破首相自身が語っています 1。
堺屋さんはこの本で、日本は幕末維新、第二次世界大戦の敗戦に続き、平成の終わりとともに価値観が大きく変わる「三度目の敗戦」を迎えていると指摘しました 12。そして、これまでの「強い日本」「豊かな日本」という考え方では立ち行かなくなった今、AIやロボットなどが活躍する「第四次産業革命」の時代には、「楽しさ」を新しい価値基準とする「三度目の日本」を作るべきだと訴えたのです 11。
石破首相も、最初は「楽しい日本」という言葉に「違和感があった」そうですが、最終的には自身の政策の柱として採用しました 6。堺屋さんの、役所主導のやり方への批判や、時代に合わせた新しい価値観の必要性といった考えに、共感する部分があったのかもしれません 11。
ただ、この堺屋さんの考えを借りてきたことには、少し注意も必要です。堺屋さんは1970年の大阪万博の仕掛け人の一人でもあり 6、尊敬される一方で、過去の時代の象徴と見られることもあります。そのため、「楽しい日本」というスローガンは、知的な裏付けがある一方で、「ちょっと古いのでは?」「オリジナリティがないのでは?」という声も聞かれます 10。堺屋さんが参考にした高度成長期(特に大阪万博)の成功体験に基づいた考え方が、今の時代の課題に対する新しい答えというより、昔の考えの焼き直しのように聞こえてしまい、新しいビジョンを求める人には響きにくいかもしれません。
政策とのつながり:「地方創生2.0」
石破首相は、「楽しい日本」を実現するための具体的な政策として「地方創生2.0」を挙げています 2。これは、東京だけに人やものが集中するのをやめて、地方にも拠点を作り、多様な経済や社会を築こうという考え方です 2。
具体的には、地方にある農林水産業やサービス業などの可能性を最大限に引き出し、特に若い人や女性が「ここで働きたい!」と思えるような、魅力的な環境を作ることに力を入れるとしています 2。
この構想は「令和の日本列島改造」とも呼ばれ、かつての田中角栄元首相の「日本列島改造論」を意識しています 2。ただし、石破首相によれば、田中構想が道路や鉄道といった「モノ」(ハード)の整備から始まったのに対し、「地方創生2.0」は、地域の人材やデジタル技術といった「コト」(ソフト)の魅力を重視し、官民が協力して地域の拠点を作り、新しい人の流れを生み出す点が違う、とのことです 5。そのための具体的な進め方として、5つの柱が示されています 2。
しかし、「令和の日本列島改造」という名前は、過去の成功への期待を抱かせる一方で、田中角栄さんの改造論が引き起こした問題(物価の急上昇、土地投機、環境問題など)も思い出させます 23。石破首相がソフト面を強調しても、国全体を大きく変えるようなこのネーミングは、「昔の失敗を繰り返すのでは?」「本当にお金は大丈夫?」といった心配を招きかねません 2。地方創生交付金など、今ある仕組みを使うとも言っていますが 28、本当に「改造」するとなると、かなりの費用がかかる可能性があり、そのお金をどうするのか、経済への影響はないのか、もっと詳しい説明が必要でしょう。
首相の個人的な思いと大阪万博
「楽しい日本」という言葉には、石破首相自身の個人的な経験や思いも強く込められています。首相は子供の頃を振り返り、「今より貧しかったかもしれないけれど、地域には笑顔があって、お互いを尊重し、助け合う社会があった」「明るくて楽しかった」と語っています 6。この経験が、今の日本に足りないものとして、首相の「地方を元気にしたい」という思いにつながっているようです。
首相は以前から「地方」の力や可能性を信じ、その活性化を訴えてきました 18。地方創生担当大臣などを務めた経験も、その考えを強くしています 31。安全保障の分野でも、地方の視点や国民一人ひとりの暮らしを守るという意識が見られます 30。
特に印象的なのは、首相が何度も、そして楽しそうに語る1970年の大阪万博の体験です 6。中学2年生の時に3回も行ったという万博会場。動く歩道、月の石、人間洗濯機といった未来の技術への驚き、会場の活気、人々の笑顔、そして「これから日本はもっと良くなる!」という確かな希望。これらが、首相にとっての「楽しい日本」の原風景となっているのです。この思い出話は、単なるノスタルジーではなく、首相が目指す社会の理想像を具体的に示していると言えるでしょう。
「楽しい日本」が目指すのは、あの頃? 高度経済成長期とのつながり
高度経済成長期というキーワード
石破首相の「楽しい日本」についての発言、特に堺屋太一さんへの言及、「地方創生2.0」との関連、そして大阪万博への強い思い入れ。これらを考えると、首相が「楽しい日本」という言葉に込めているイメージは、戦後の高度経済成長期、特にそのピークだった1960年代後半から1970年代初めの頃の日本を強く意識している可能性が高いと言えそうです 34。この時代は、日本経済が驚くほど成長し、人々の暮らしが豊かになり、社会全体が活気と「なんとかなるさ」という楽観的な雰囲気に満ちていた時代として記憶されています。
1970年大阪万博:時代のシンボル
石破首相が「楽しい日本」の具体的なイメージとしてよく例に出すのが、1970年に開かれた日本万国博覧会(大阪万博)です 6。
- 未来への驚き:動く歩道、アメリカ館の「月の石」、ソ連館の宇宙船ソユーズ、そして三菱未来館や日立グループ館などが展示した未来技術(リニアモーターカー、電気自動車、テレビ電話、携帯電話など)は、当時の人々に未来への夢と大きな驚きを与えました 36。
- 国際的なイベント:「人類の進歩と調和」をテーマにしたこの万博は、アジアで初めて開かれた国際博覧会でした。77カ国と4つの国際機関が参加し、約6422万人もの人が訪れるという、とてつもない規模でした 37。
- 経済効果とインフラ整備:万博に合わせて高速道路などが整備され、関西地方のインフラが大きく進歩しました。経済効果は約5兆円とも言われ 36、日本が世界の中で存在感を増すきっかけにもなりました。
- 活気と希望:会場には岡本太郎作の「太陽の塔」がそびえ立ち、国内外からの多くの来場者で大変な賑わいでした 38。石破首相が思い出すように、そこには「希望と明るさと笑顔」があり、「これから日本は良くなる」という国民全体の高揚感と未来への楽観的なムードが満ち溢れていたのです 6。
この大阪万博は、石破首相にとって、単なる過去のイベントではありません。「楽しい日本」という、少しぼんやりとした言葉を具体的に示す、強力なシンボルなのです。経済の勢い、新しい技術への期待、世界との交流、そして何よりも、国民みんなが共有した未来への希望。そういった、高度経済成長期の 良い面 がギュッと詰まっているのが大阪万博だ、と首相は考えているのでしょう。首相が万博体験を繰り返し語るのは、あの時代特有の「空気感」、つまり「楽しさ」の感覚を現代に蘇らせたい、という願いの表れなのかもしれません。
1970年前後、日本はどんな時代だった? 経済・社会・政治を振り返る
石破首相が「楽しい日本」の原風景として思い描く1970年前後の日本。それは一体どんな時代だったのでしょうか? 経済、社会、政治、そして世界との関係から見ていきましょう。
経済:ぐんぐん伸びた時代
1955年頃から1973年のオイルショックまで続いた高度経済成長期は、日本の経済をガラリと変えました 34。特に1970年までの間は、経済成長率が年平均10%近くにもなるという、信じられないような勢いでした 34。これは、1990年代以降の低い成長率(年率1%程度)とは大違いです 34。
この成長を引っ張ったのは、新しい技術を取り入れた鉄鋼や化学などの重化学工業の急速な発展でした 45。農業や漁業の割合は減り、代わりに工場で作る製造業や、物を売る卸売・小売業、サービス業が経済の中心になっていきました 43。会社はどんどん新しい機械や設備に投資し、生産性を上げていきました。
国民の暮らしも大きく変わりました。給料(所定内給与)もボーナスもどんどん上がり 46、人々の買う力が増えました。「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)をはじめとする家電製品などが急速に普及し、たくさんの物を買い、消費する社会がやってきました 47。1968年には、国の経済規模(GNP)で西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になりました 42。ただし、国民一人ひとりの豊かさ(一人当たりGDP)ではまだ世界で20番目くらいで、欧米の先進国には追いついていない状況でした 48。
大阪万博は、こうした経済的な成功を背景に、日本の技術力と豊かさを世界に見せるイベントでした。そこで紹介された新しい食べ物(ファストフード、缶コーヒー、ヨーグルトなど)や家電製品は、その後の日本の消費文化にも影響を与えました 37。
比べてみると… 高度成長期と今の経済
下の表は、高度経済成長期(1965~1973年)と最近(2015~2023年)の主な経済指標を比べたものです。
表1: 主な経済指標の比較(日本、1965-1973年 vs 2015-2023年 平均)
指標 |
1965-1973年 (平均) |
2015-2023年 (平均) |
出典(参考) |
実質GDP成長率 (%) |
約 9.1% |
約 0.6% |
内閣府 国民経済計算、World Bank Data など |
消費者物価指数上昇率 (%) |
約 5.9% |
約 1.1% |
総務省統計局 消費者物価指数 など |
完全失業率 (%) |
約 1.2% |
約 2.6% |
総務省統計局 労働力調査 など |
有効求人倍率 (倍) |
約 1.17倍 |
約 1.35倍 |
厚生労働省 一般職業紹介状況 など |
名目賃金上昇率 (%) |
約 15.4% |
約 0.6% |
厚生労働省 毎月勤労統計調査 など |
注:上の数字は、いろいろな統計から計算したおおよその値です。計算方法や期間の取り方によって変わることがあります。特に賃金上昇率は、調査のやり方などが変わっているため、単純に比べるのが難しい場合があります。有効求人倍率は、働き方の変化なども考える必要があります。
この表を見ると、高度成長期は経済がぐんぐん伸び、給料もどんどん上がり、失業する人も少ない、という特徴があったことがわかります。物価も上がりましたが、それ以上に給料が上がったので、人々の生活は豊かになっていきました。一方、最近は経済の伸びが鈍く、給料もあまり上がりません。失業率は低いままですが、仕事の求人が増えても、必ずしも給料の大幅アップにはつながっていません。この経済の勢いの違いが、石破首相が昔を懐かしむ気持ちと、今の時代に同じような状況を作る難しさを物語っています。
社会:変わりゆく暮らしと価値観
経済の成長は、社会にも大きな変化をもたらしました。
- 「みんな中流」意識:給料が上がり、人々の間の収入の差も小さくなる傾向にあったため、多くの人が自分を「中流」だと考えるようになりました 42。これは社会の安定感や一体感につながりましたが、一方で、みんな同じような考え方や暮らし方をする風潮も生みました。
- 都市化と過疎化:農村から都市へたくさんの人が移り住み、都市化が急速に進みました 42。東京・大阪・名古屋などの大都市圏に人が集中し、家が足りなくなったり、交通渋滞がひどくなったりする問題も起きました 42。その一方で、地方では人が減り、過疎化が始まりました。
- 高齢化の始まり:生まれる子どもの数が減り、亡くなる人も減ったため、この頃から人口の高齢化も始まっていました 51。
- 価値観の変化:戦後の貧しさから抜け出すという目標が達成されると、人々は物だけでなく、心の安定や充実感、安全な暮らしといった、より高いレベルのものを求めるようになりました 48。自然に対する考え方も、「自然を征服する」という考えから、「自然とうまく付き合う」「自然を利用する」といった考え方が少しずつ広がりました 52。しかし、その一方で、経済成長の悪い面として公害問題が深刻になり、環境への関心も高まりました 42。
- 共同体の変化:昔ながらの地域のつながりや、会社での終身雇用・年功序列といった関係はまだ強かったものの 55、都市化や核家族化、個人の考えを大切にする価値観の広がりなど、変化の兆しもありました。1970年代には「ひきこもり」という言葉も使われ始めています 56。社会全体としては、「明日は今日よりも良くなる」という未来への楽観的な見方が強かったですが 6、成長の裏側にある問題への意識も少しずつ生まれていました。
政治:安定と変化の時代(佐藤栄作政権)
この時代の大部分は、佐藤栄作首相が長く政権を担当した時期(1964年11月~1972年7月)と重なります 57。佐藤政権は、「政治の安定」と「経済成長」を土台に、戦後の日本の骨組みを作る上で重要な役割を果たしました。
- 外交・安全保障:アメリカとの強い同盟関係(日米安全保障条約)を続け、アメリカのベトナム戦争への関与を支持しました 57。1965年には韓国との国交を正常化しました(日韓基本条約)57。一番大きな課題だった沖縄の日本復帰については、粘り強い交渉の結果、1969年にアメリカとの間で「核兵器なし、本土と同じ条件」で返すことに合意し、1972年に実現しました 57。また、1968年には「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を表明し、アメリカの核抑止力に頼りつつも、日本の核に対する基本的な考え方を確立しました 58。
- 国内政治:高度経済成長を進めると同時に、その中で起きた問題(特に公害)への対応が大きな課題でした。1967年に公害対策基本法を作り、1971年には環境庁(今の環境省)を設置しました 54。道路や港、住宅などの社会インフラの整備も進められました。1970年には大阪万博を成功させ、日本の国際的な地位を高めました 60。政治的には、自民党が安定した多数派を維持し、長期政権を築きましたが、安保闘争(70年安保)や学生運動、公害反対運動など、政府に対する異議申し立ても活発でした 58。佐藤政権の終わり頃には、田中角栄さんによる「日本列島改造論」が登場し、経済成長によって生まれた地域間の格差をどうするかが、次の大きな政治課題となっていきました 23。
世界の中の日本:存在感を増す一方、変化への対応も
1970年前後の日本は、世界の中での地位を急速に高めていました。経済大国としての存在感を増し、1964年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟し、名実ともに先進国の一員となりました 65。
- アメリカとの関係:世界の中心は、冷戦下の米ソ対立でした。日本はアメリカとの同盟関係を軸にしていました 57。安全保障はアメリカの「核の傘」に頼り 58、経済面では貿易や投資を通じてアメリカとの関係を深めました。しかし、日本の経済力が強くなるにつれて、アメリカとの間で貿易摩擦も起きるようになりました 68。
- アジアとの関係:韓国との国交を正常化し、東南アジアの国々との関係も強化しようとしました 59。佐藤首相はアジア各国を訪問し、経済協力などを通じて影響力を広げようとしました 59。一方で、中国(中華人民共和国)とは、台湾(中華民国)との関係を重視していたため、正式な国交がない状態が続いていました 59。
- 国際情勢の変化:しかし、1970年代に入ると、世界は大きく動き始めます。1971年のニクソン・ショック(アメリカがドルと金の交換をやめたこと)は、戦後の世界の通貨システムを揺るがし、日本経済にも大きな影響を与えました 65。また、アメリカと中国の関係が劇的に改善したこと(ニクソン大統領の中国訪問)は、東アジアの国際関係を大きく変え、日本も中国との関係を見直さざるを得なくなりました 61。世界の政治が多極化し、経済問題の重要性が増す中で、日本はより複雑になった国際環境に対応していく必要に迫られていったのです 67。
輝かしい時代の影:高度成長期の問題点
石破首相が懐かしむ「楽しい日本」の原風景、高度経済成長期。しかし、その輝かしい時代には、見過ごせない深刻な問題も存在しました。
環境破壊と公害:「公害の時代」
高度経済成長は、同時に「公害の時代」でもありました。経済の効率や生産性を上げることが何よりも優先され、環境を守る対策は後回しにされた結果、全国各地で深刻な公害が発生しました 42。
特に、
- 水俣病(熊本県)
- 新潟水俣病(第二水俣病)
- 四日市ぜんそく(三重県)
- イタイイタイ病(富山県)
は「四大公害病」と呼ばれ、大きな社会問題となりました。これらは、工場から出された有害物質(メチル水銀、亜硫酸ガス、カドミウムなど)が原因で、多くの人々が健康を害され、命を落とす悲劇となりました 54。
これらの公害病では、人間よりも先に魚や植物などの自然に異常が現れるというサインがあったにもかかわらず、原因の調査や対策が遅れたために被害が広がってしまった、という痛ましい教訓を残しています 72。公害問題は、経済成長が残した負の遺産として、その後の日本の環境政策や企業のあり方に大きな影響を与えました。
働く環境:「モーレツ」の裏側
経済成長を支えたのは、長時間働くこともいとわない「モーレツ社員」と呼ばれるような、勤勉な働き手たちでした 76。しかし、その裏側では、厳しい労働環境や安全対策の不備による労働災害(労災)がたくさん起きていました。
特に、建設業や製造業といった成長を引っ張った産業では労災が多く、昭和30年代(1955年~)には、労災で亡くなる人が年間6,000人を超える年もあったのです 77。トラック運転手など、特定の職業では働きすぎ(過労)も問題になっていました 79。最近では労災の件数自体は減っていますが 78、「過労死(karoshi)」という言葉に象徴されるような働きすぎの問題は、この時代の働き方にその根っこがあるとも言えます 81。
社会のひずみと地域の格差
急激な経済成長と都市化は、社会に様々な問題も引き起こしました。
- 都市の問題:大都市に人が集まりすぎた結果、住宅不足、交通渋滞、ゴミ問題などが深刻になり、生活環境が悪化しました 42。
- 地方の問題:一方で、人が都市へ出て行ってしまった地方では過疎化が進み、地域の活力が失われることが心配されました 50。
- 地域格差:経済成長の恩恵は、全国どこでも同じではありませんでした。太平洋ベルト地帯と呼ばれる工業地帯に集中する傾向があり、大都市圏と地方との間には、収入や産業の面で大きな格差がありました 50。政府は公共投資などで格差をなくそうとし、1970年代半ば以降は収入の格差が縮まる傾向も見られましたが 50、地域間の不均衡は、その後も日本の課題として残り続けました。
これらの「影」の部分を考えると、石破首相が「楽しい」という一言でこの時代をまとめることには、少し危うさも感じられます。大阪万博に象徴されるような華やかさや未来への希望ばかりを強調すると、当時の人々が直面した苦しみや社会の矛盾、そして今も続く課題の始まりを見逃してしまうかもしれません。歴史を偏って見てしまうと、スローガン自体の説得力も失われかねません。過去の成功から学ぶことは大切ですが、同時にその時代の問題点からも教訓を得て、バランスの取れた視点を持つことが、今の課題を解決するためには不可欠でしょう。
現代から見た「楽しい日本」:共感と批判の声
石破首相が打ち出した「楽しい日本」。今の日本では、このスローガンはどのように受け止められ、評価されているのでしょうか?
「楽しい日本」への様々な反応
メディアや政治の専門家、野党などからは、「楽しい日本」に対して色々な意見や批判が出ています。
- 具体的に何?:「ビジョンが見えない」「結局、今までの政策を寄せ集めただけでは?」といった声があります 10。
- 言葉自体への疑問:「楽しい」という言葉が「子供っぽい」「国民をバカにしているのでは?」といった批判も聞かれます 7。
- 現実とのギャップ:物価高や給料が実質的に減っていること、経済的な格差など、国民が直面している厳しい現実と「楽しい」という言葉がかけ離れている、という指摘は特に多いです 9。首相自身も「この時代に『楽しい』なんて言ってる場合か、とお叱りを受ける」と認める場面がありました 9。
- オリジナリティは?:堺屋太一さんという過去の人の言葉を借りている点について、「独創性がない」「時代遅れだ」という意見もあります 10。
全体的に見て、このスローガンが国民の間で広く共感を呼び、政治的な盛り上がりを生んでいるとは言いがたい状況のようです 10。むしろ、「不協和音」を生んでいる、という見方すらあります 9。
一方で、肯定的な見方もあります。例えば、高校の授業料無償化など、国民が自由に使えるお金を増やす政策と結びつけて、「楽しい日本の土台を作るものだ」と評価する声や 92、政府の経済財政諮問会議で「人々のウェルビーイング(幸福)の向上」と関連付けられた例もあります 8。
他の政治スローガンと比べてみると?
「楽しい日本」を理解するために、過去の似たような、あるいは対照的な政治スローガンと比べてみましょう。
- 田中角栄「日本列島改造論」:石破首相自身が「令和の日本列島改造」として意識しているように 2、国土全体のバランスの取れた発展や地方の活性化を目指す点では似ています。しかし、田中構想が高速道路や新幹線といった「モノ」(ハード)中心だったのに対し、石破構想は地域の魅力やデジタル技術といった「コト」(ソフト)を重視するとされています 5。田中構想は、一部実現した計画もありますが 64、物価の急上昇や土地投機、環境破壊といった深刻な副作用ももたらしました 23。この過去の失敗は、「令和の日本列島改造」への期待と同時に、心配の声も呼んでいます。
- 岸田文雄「新しい資本主義」:岸田前首相の「新しい資本主義」も、「楽しい日本」と同じように、「具体的に何かわかりにくい」「国民に浸透しなかった」といった批判を受けました 10。岸田政権が、最初は「分配」を重視していたのに、途中から「成長」重視に変わっていったように 95、「楽しい日本」も、今後の政権運営の中で意味合いが変わったり、だんだん使われなくなったりするかもしれない、という見方もあります 10。
- 他の首相のスローガン:日本の政治では、スローガンが政権のイメージ作りや政策を進める上で、様々な影響を与えてきました。中曽根康弘さんの「戦後政治の総決算」や小泉純一郎さんの「構造改革なくして景気回復なし」のように、強いリーダーシップと結びついて、政治の方向性を示した例もあります 97。一方で、すぐに終わってしまった政権のスローガンは、ほとんど忘れられています 100。安倍晋三政権の「アベノミクス」は、一定の評価がある一方で、その成果や副作用については今も議論が続いています 101。石破首相の「楽しい日本」が、これらの過去の例と比べてどれだけ影響力を持つかは、これからの政策の進め方と国民の反応次第と言えるでしょう。
今の日本の課題と「楽しい日本」
「楽しい日本」というスローガンは、今の日本が抱える深刻な課題に対して、どれだけ有効な解決策となりうるのでしょうか?
日本は、幸福度ランキングで依然として低い位置にあり(特にG7の中では最下位レベル)6、特に若い人たちの精神的な幸福度の低さが問題になっています 105。少子高齢化と人口減少はますます進み 2、経済は長い間停滞し、「失われた30年」とも呼ばれる状況が続いています 9。将来への不安も根強くあります 6。
このような状況で、「楽しさ」を追求しようというメッセージは、ともすると「現実を見ていないのでは?」「問題の深刻さから目をそらしているのでは?」と受け取られかねません 7。経済的に苦しかったり、将来に不安を感じていたりする人にとっては、「楽しさ」よりもまず、生活の安定や収入アップが先決だと感じるのは自然なことでしょう。
また、「楽しさ」という言葉の意味自体が、石破首相が懐かしむ1970年代と今とでは違っている可能性もあります。首相が語る「楽しさ」は、地域社会の一体感や、みんなで共有する未来への希望といった、少し集団的なニュアンスがあるように聞こえます 6。一方、今の調査を見ると、人々が求めているのは、旅行や趣味といった個人的な時間の充実、あるいは十分な睡眠や休息といった、より個人的で多様な価値観に基づいたものである傾向が見られます 106。
さらに、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の普及は、「楽しさ」を経験したり共有したりするあり方を大きく変えました。SNS上の「楽しさ」は、他人との比較や「いいね!」が欲しいという気持ち(承認欲求)と結びつきやすく 109、必ずしも心からの幸福感とは限らない場合もあります。若い世代はSNSを情報収集や趣味の共有にうまく活用する一方で 110、自分に自信が持てなかったり、他人の意見に流されやすかったりといった課題も抱えています 110。石破首相が思い出す1970年代の「楽しさ」と、今の若者がSNSなどを通じて経験する「楽しさ」の間には、質的な違いがあるかもしれません。このギャップが、スローガンが現代の感覚に響きにくい理由の一つになっている可能性もあります。
まとめ:「楽しい日本」は実現する? ノスタルジアか、未来への道しるべか
これまでの分析を振り返って
この記事では、石破茂首相が提唱する「楽しい日本」について、その意味、歴史的な背景、政策とのつながり、そして現代での評価を様々な角度から見てきました。
石破首相の「楽しい日本」は、堺屋太一さんの考えに影響を受けつつ、国の「強さ」や会社の「豊かさ」だけでなく、個人の幸せ、自己実現、お互いを尊重すること、そして未来への希望を大切にする社会を目指すものとして示されました。そのための具体的な政策として、「地方創生2.0」(令和の日本列島改造)が中心に据えられています。
分析の結果、このスローガンが強く意識しているのは、1970年の大阪万博に象徴される高度経済成長期のピークであり、当時の経済的な勢い、新しい技術への期待、国民全体の高揚感といった、ポジティブな記憶であることがわかりました。
過去を参考にするということ
高度経済成長期、特に大阪万博の頃の日本には、確かに石破首相が思い出すような「楽しさ」、つまり未来への明るい見通しと社会全体の活気があったと言えるでしょう。しかし、その輝かしい時代の裏には、深刻な公害、厳しい労働環境、都市と地方の格差といった、無視できない問題もありました。当時の経済成長モデルは、環境や働く人々の犠牲の上に成り立っていた部分もあったのです。
今の日本は、経済の低成長、人口減少、グローバル化の進展といった、高度成長期とは全く違う状況にあります。当時の成功体験や懐かしさに頼りすぎることは、今の複雑な課題に対する有効な解決策を見つける上で、かえって邪魔になる可能性もあります。歴史から学ぶべきなのは、成功体験だけでなく、その影にあった問題や、それをどう乗り越えてきたか、ということでもあるはずです。
最終的な評価:これからどうなる?
石破首相の「楽しい日本」は、国民の幸福度を高めるという大切な目標を掲げ、地方創生という具体的な政策課題と結びつけようとしています。しかし、スローガン自体は少し抽象的で、どこか懐かしい響きが強いのも事実です。厳しい経済状況や将来への不安を抱える国民にとって、「楽しさ」という言葉が、どれだけ現実的な目標として心に響くかは、まだわかりません。
今のところ、このスローガンは、明確な政策ビジョンとして国民に広く浸透しているとは言えず、むしろ政権の理念を示すための言葉、あるいは首相個人の思い入れの表明、という側面が強いように見えます。今後、この抽象的な言葉を、国民が「確かに良くなった」と実感できる具体的な政策の成果へと結びつけ、今の社会に合った形で意味づけし直していくことができるかどうかが、石破政権にとって大きな課題となるでしょう。
本当に「楽しい日本」を実現するためには、「楽しさ」そのものを政策目標にするよりも、私たち一人ひとりが、それぞれのやり方で「楽しさ」を追求できるための土台を作ること、つまり、経済的な安定、仕事と生活のバランスの改善、多様な生き方を支える社会の仕組み、そして将来への安心感を着実に築いていくことの方が、より現実的で重要なアプローチなのかもしれません。
以下の有料部分には参考文献のリストが紹介されています。